光る君へ紫式部と清少納言の関係は?ライバルといわれている理由を調査

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光る君へ紫式部と清少納言の関係は?ライバルといわれている理由を調査します。

光る君へ6話では紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)が漢詩の会で初顔合わせをしていましたね。ききょうの発言にまひろは圧倒されていたような感じの微妙な表情ではありませんでしたか?

今回は、光る君へ紫式部と清少納言の関係は?ライバルといわれている理由を調査します。

光る君へ紫式部と清少納言の関係は?

紫式部と清少納言については、生きている時代や世代がほぼ一緒だったといわれています。

ただ、実際は直接会ったりなどの接点はなかったようです。

清少納言は西暦966年の生まれ、紫式部は正確には分からず973年生まれとされているので

清少納言が紫式部より約7歳年上となります。

さらに清少納言が宮廷に出仕したのは

  • 西暦993年から1000年

紫式部が出仕したのは

  • 西暦1005年

ということで出仕の時期がかぶっていません。紫式部が初出仕のときには、清少納言は有名な作家になっていました。

光る君では、出仕前の二人が出仕前の漢詩の会で出会っています。生きている時代は一緒であり、ライバルともいわれているので出会っていてもおかしくないですよね。まひろにききょうが今後どのくらいまで関わってくるのか楽しみですね。

光る君へ紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)がライバルといわれる理由

紫式部と清少納言は、接点はなかったものの「宮廷の女房(家庭教師世話役)」と同じ地位や立場だったことでライバルといわれています。

  • 一条天皇の先の妻定子皇后(藤原道隆の娘)に仕えた清少納言は随筆家(エッセイスト)
  • 一条天皇の後の妻彰子皇后(藤原道長の娘)に仕えた紫式部は物語作家

清少納言については、紫式部の面識はなかったと思われので、紫式部について書かれたものはありません

しかし、紫式部については後から女房になったということで清少納言と比較されてきたと推測されます。当時は、物語は女、子供が読むもので評価が高いものではなかったようです。

そのためか、「紫式部日記」で清少納言のことを批判しています。

原文 

  • 「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかりさかしだち、真名(まな)書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」

意味

  • 「それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、よく見ればまだまだ足りない点だらけです」

さらに感情的に批判しています。

原文

  • 「かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ」

意味

  • 「彼女(清少納言)のように、人との違い、つまり個性ばかりに奔(はし)りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ『変』というだけになってしまうものです。例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、寒々しくて風流とはほど遠いような折にでも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうち自然と現実とのギャップが広がって、傍目(はため)からは『そんなはずはない』『上っ面だけの嘘』と見えるものになるでしょう。その『上っ面だけの嘘』になってしまった人の成れの果ては、どうしたらよいものでございましょう」

まひろは、彰子皇后に仕えた当初は、陰気で地味と疎んじられていました。それが、努力を重ねることで見直されて最終的は社交的になり、障子皇后からの信望も厚くなっていちばん目をかけられるようになったようです。それだけに、ききょうには大きな対抗心があったといわれています。

まとめ

今回は、光る君へ紫式部と清少納言の関係は?ライバルといわれている理由を調査しました。

紫式部と清少納言は直接接点はなかったものの、同時期に生き職業も似ていたこともあって比較対象になったようです。さらに、あとから女房になった紫式部は、清少納言と比べられたこともあり、清少納言を日記で批判したことによりライバルといわれています。

光る君へでは、まひろとききょうの関係がどのように描かれるのか楽しみですね!